池田政和 (オートレース選手)

池田政和 (オートレース選手), by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1117448 / CC BY SA 3.0

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池田 政和(いけだ まさかず、1973年2月11日 – )は、日本のオートレース選手。
埼玉県鳩ヶ谷市(現在は合併されて川口市)出身、23期。
元船橋オートレース場所属、2016年4月より川口オートレース場所属。
呼名(所有車)は「ミオン / マンティス / カイザー / カイザー2 / ヤマセンコー / マツシバ 」。
池田政和は、「王国」船橋の新時代を築いたエース選手である。
デビュー当時こそ華やかな活躍は無かったものの、1997年頃から徐々に全国区に名を売り出した。
そして、1999年に日本選手権オートレースを制覇すると、一躍トップレーサーの仲間入りを果たしたのである。
女性並の小柄な体躯ながら、身軽さを生かした走法が持ち味である。
1999年の初頭に池田の師匠であった藤川順二が殉職してしまった。
その後、日本選手権で優勝した際には、人目を憚らず号泣した。
2000年のSGオールスターオートレースで3度目のSG載冠を果たした後、スランプに陥った池田は片平巧、高橋貢という歴戦の強豪の後塵を拝むことになる。
エンジンが仕上がらず苦戦が続いた池田が復活の狼煙を上げた超抜エンジン「マンティス」。
一般戦ながらも船橋開催で天才と呼ばれた片平等を10m前に置くスーパーハンデに位置することになる。
2002年初頭の第16回スーパースター王座決定戦では、スーパースターフェスタの開催期間を通じて決定戦8車の練習走行が行われたが余りの試走タイムに下馬評が釣り上がる。
本番で3.22という抜群の試走タイムを叩き出し、スタートに遅れながらもミズスマシのように強豪前車を抜き去り自身4度目のSG制覇に優勝インタビューで感極まった。
オートレースにおいて初めて競艇のように「超抜」エンジンと呼ばれた「マンティス」を駆り2002年濱野淳との日本選手権での激戦、2003年日本選手権優勝で借りを返す。
また2004年に船橋で開催された第36回日本選手権優勝戦における高橋貢との死闘は有名。
池田自身が準優勝となりながらも周囲からの反響に驚いた。
そして翌2005年第20回スーパースター王座決定戦にて、高橋とまたもや鍔迫り合いを演じて優勝し借りを返した。
雑草のように一度敗れても次に借りを返す執念のレースが池田をレース界最高峰に押し上げた。
同門で弟弟子にあたる永井大介とは非常に仲がよく、兄弟のような関係でさえある。
また、非常に後輩思いでもあり、2007年のSG第11回オートレースGPの優勝戦後には、SG初優出初優勝を飾った後輩の武藤博臣を祝福する姿が見られた。
この優勝戦には自身も優出しており、グランドスラムを狙いながらも敗退してしまったのだが、素直に後輩の偉業を祝う姿に池田の優しさが現れていたと言えよう。
ドラえもんのファンであり、以前は競走車の呼名に「ドコデモドア」や「デキスギクン」といった、ドラえもんにまつわる名称を使用していた。
「マツシバ」は、ドラえもんの製造工場の名前(松下電工と東芝を掛け合わせたもの)。
また、以前使用していた呼名「ミオン」はペットの猫の名前でもある。
コインロッカーや下駄箱では8番を使うことが多い。
これは、レースで最下位の8着にならないように8番を使い切ってしまうという願掛けでもある。
輝かしい成績を残している池田であるが、意外にも飯塚での優勝がいまだにない。
過去に飯塚のSGで3回(第33回日本選手権5着・第13回全日本選抜7着・第4回オートレースGP3着)・GIでも幾度となく優出(第2回プレミアムC3着など)経験はあるものの、あと一歩のところで頂点には届かなかった。
特に飯塚伝統のGI、ダイヤモンドレースは21世紀に入って以降5度も優出している(第44回及び50回3着・48回4着・49回5着・54回7着)だけに、全場制覇への期待が高まっている。
また、雨走路の競走成績が極端に悪い。
2000年5月31日の地元オールスターでは鉄人島田信廣・怪物濱野淳・カミソリスタート有吉辰也・雨巧者鈴木幸治らを相手に優勝したものの、それ以降は湿走路でのレースは精彩を欠いている。
近年では雨が降ると車券の対象外になることがほとんどで、良走路の時とは比べ物にならないほどの人気薄となる。
ところが、2011年8月21日の利根コカ・コーラボトリングゼロカップ2011(船橋)において中村雅人・永井大介・伊藤信夫らを封じて通算59回目の優勝を湿走路で飾る。
雨での…